以前のブログにも書いた杉山先生の講演会です。zoomで参加できます。
以前ブログにも書いたウィニコットの提唱した発達理論です。
新生児期から三才ころまでの安定した母子関係が、その後の子の人格形成や社会的な他者との安定した関わりを構築する基盤になります。
どんなに頑張っても、赤ちゃんの欲求を完全に満たしてあげることはできません。
特に新米ママであれば、自信喪失して不安になったり、産後うつにもなったりするかもしれません。
「ほどよい」とは完全ではないということです。
新生児の頃には母子は一体ですが、月数を重ねるなかで欲求をすべて満たすことはできなくなります。小さいながらも赤ちゃんはしだいに、母親と自分は一体ではないこと、すべての欲求は満たされないことを知ります。
そして、そのことが心理社会的な子の発達を促します。
子の安全基地としてあり続けること、スキンシップは当然必要です。
私も属している「こころ塾」のセミナーで毎年講師をしてくださっている先生がいます。
埼玉学園大学人間学部心理学科教授の杉山雅宏先生、その先生が書かれた本です。
先生は学校臨床に造詣が深く、埼玉学園大学の臨床心理カウンセリングセンター長をなさっています。
私も10代のお子さんのことでご相談をお受けすることがあります。
学校でのいじめ、愛着の問題、発達の問題、様々なことがあります。
子どもが不登校になると、子どものカウンセリングをして欲しいと言われる方が多いのですが親御さんとお話させて頂きたいと考えることも多いです。症状を呈しているお子さんはIdentified patientなのかもと感じることもあります。
共通するのは「自分は愛されていないのでないか」「自分はまわりの期待に応えられずダメな人間なんじゃないか」という思いがあるように思います。
しかし、様々な痛みや苦しさがあっても生き抜いていま、ここにあること、それは何より尊いことです。我が子を腕に抱いた時の気持ちを親は思い出すことができます。
杉山先生のこの著書はとてもわかりやすく書かれています。当事者である、子どもとその親御さんへの優しく、深い応援です。
悠々舎 東京六法出版
900円+税
「障害、屈辱、避難などをさける結果、不快、苦痛、危険、葛藤、不安などから逃れることのできる、防衛機制の1つである。たとえば、失恋の結果修道院に入るとか、・・・・・・・・家庭生活が厭なため、毎晩バーに通いつめるとか・・」心理用語の基礎知識より
防衛機制は無意識的に行われます。それは必ずしも悪いわけではなく、きちんと向き合うための緊急措置のためだったりします。
私にも覚えがあります。
5年くらい前、慢性的な身体の痛みに囚われていたことがありました。検査しても原因が特定できず。大学病院の麻酔科に通院したりの日々を一年くらい過ごしました。
今も痛みはありますが囚われないで、自分のやりたいことが今はできるようになっています。
痛みに囚われていれば、自分自身の課題とむきあわずにすみます。「だって、そろどころじゃないんですから!」
詐病ではありません。しかし、痛みを理由に自分自身の課題と向き合うことを逃避していたともいえるのです。
変化したのは、過去のブログにも書いたACT(Acceptance and Commitment Therapy)に出会ったことでした。
また
自分自身の課題と向き合うのも「時」があるのかもしれません。
これを他人から指摘されたら怒りますよね。向きになって怒るときそこにヒントがあるのかもしれません。
10年位前からカウンセラーとして活動してきました。
様々にアンテナをはりめぐらし学び続けてきたのですがもう一つすっきりしなくてモヤモヤしていた自分がいました。
そこで
今年の4月から、正式に臨床心理学の大学院に入学することにしました。基本通信なので、ここでのカウンセリングも含め、お仕事をしながら学ぶことになります。
受験に際しては、もれなく「私なんか・・・」というメンタルとの闘い(汗)がありました。なにかに挑戦しようとする時、必ずと言っていいほど、このメンタルが頭をもたげます。
「私なんか・・・」と思った時、脳は可能性のシャッターを降ろしてしまいます。
それをグイっとあげるイメージが大切です。
また落ち込んだ時、なにかを学ぶということは立ち直るヒントを与えてくれます。
学び続けるかぎり、人は若くいられるといいますね。
かくありたい(笑)
はっきりと大切な人が亡くなるわけではなく、その人が存在していても自分の記憶の中にある人でなくなることがあります。
自分を大切に育て導いてくれた親が認知症になってしまう。親は親なのだけれど別人のようになってしまうということがあります。これもやはり喪失体験、曖昧な喪失と言えます。
3.11の震災で遺体は見つからず、亡くなったことは否定できないけれど、この曖昧な喪失に苦しまれた方たちは多かったと思います。それでもお葬式をするしかない。その儀式をするまで数えきれない葛藤があったのだと思います。
生きていくということは、喪失体験と再適応のくりかえし。
突然訪れた恋人との別れ
大人になるということ。
卒業する。
引っ越しをする。
受け止め方は様々ですがやはり、これらも喪失体験です。
喪失体験をすることで、次の出会いがあったり、自立できたり、新しい上のステージにいけたりするのです。
真摯にその時々を生きていけば、危機を乗り越えて成長していくことができます。
そしてその困難を乗り越えるべくあなたが頑張っているとき、助け支えてくれる存在は必ずやいると思います。
人の力を借りるのもあなたの力です。
どんなにストレス耐性が高い人でも、
「なんか、イライラするな・・」
「もやっとする・・」
「あの人嫌な感じ、きっと私の事きらいに違いない」とか感じることがあると思います。
そんな時はこころを澄ませて自分の感情の出処を探ります。
すると
イライラ→まわりの人が思うように動いてくれない。→これはけしからんことだ!
でも、そんな風に考えるのは果たして正しいのだろうか?
もやっとする→うまくいかない。→なにが?→自分がなりたいようになれていない
自分の価値に沿って生きていないことに気が付く。
あの人、嫌な奴、私を嫌っている→その根拠はなんだろう?→自分が嫌ってることに気が付く。【投影】
この場合、背景には、自分にないものを持っている彼(彼女)に嫉妬してるのかも。もしくは自分の嫌な部分を彼(彼女)がもっているからだと気が付いてしまったからかもしれません。
このような思考は意識することなくほとんど無意識的におこなわれ、感情を支配してしまいます。
自分の感情に振り回されたら、一旦とまって自分の心と向き合ってみるといいと思います。
しゃがんで庭仕事をしてると、小学生の男の子が友達と二人庭をのぞき込んでいました。
立ち上がると、「こんにちは!お花きれいですね!」そう言ってくれました。
私のブログを見ていてくださっている方はピンときたかもしれません。
寒い朝、私にあたたかい挨拶をくれた男の子です。
「こんにちは!お花すきなの? 有難う!」
恋人に会えた以上に?嬉しかったです。そもそも人に恋する気持ちはもうどこか本棚の隅に追いやって久しいのですが(汗)
その少年との一時のふれあいに、庭仕事を頑張ってよかったと思いました。
濃密な人間関係の大切さもありますが、些細にも思えるようなこんな一瞬のふれあいが、とても愛おしく、幸せな気持ちにしてくれます。
今年6月頃
鬼子母神の話をご存じでしょうか。
もともとは、小さい子供を捉えて食べてしまうという、怖い神様でした。
お釈迦様がそれを憂い、鬼子母神の子を隠してしまいます。
そして子どもを隠されたことで自らの罪を悔やみ、安産、子育ての神になっています。
母性の光と影を象徴する存在として認識されています。
あかちゃんは母親(養育者)の献身的な世話によって守られ、愛着を形成し、成長していきます。幼子を胸に抱いた時の母親のあふれるような愛情は尊いと思います。
子供は成長につれ、親との距離をとっていきます。自らの価値観を構築して、おとなになっていきます。
そうした過程のなかで・・・
たとえば、なにかにつけて、どこいくの?なにするの?私の言う通りにしていればいいのよ!わたしのいうことが正しい
結婚してからさえ、毎日電話がくる。ラインがくる。夫との関係性にさえ口をだす。
それが息苦しく、辛い、でも抵抗できない。
ユングの集合無意識にグレートマザーというものがあります。
これは元型というものであり全人類共通のものとされています。
グレートマザーの光と影、母性の光と影。
もし誰かとの関係性に違和感を感じていたら、自分のなかのモヤモヤした気持ちが自分を苦しめていると感じたら、感情を詳細に見つめてみるといいかもしれません。
アナと雪の女王の主題歌が多くの方たちに容認されていたと思います。
ありのままで~♪
このフレーズに「ちょっと違うんじゃない⁉」と感じていたのは私だけでしょうか。
確かに、自分自身を肯定することは大事です。まず、生きてることが一番大事です。
現状を肯定するのはいいのですが、その先に「こうありたい自分」に手が届くのかという心配があります。母性原理的な現状肯定に陥ってしまうのではないかという危惧です。
父性原理の観点から、自らを見つめ直す、問いを発することが必要なのではないでしょうか。
「あるがまま」から「あるべきよう」へ。
自分自身の現状を正しく知ることから、次のこうありたいステップへ踏み出していくことが大切だと考えます。